淑徳大学から思いをつなぐ。つなげる。

伝えたい思い

当時災害支援活動に参加した卒業生、教職員から、当時の思い、10年がたち改めて伝えたいこと

メッセージが寄せられました。

卒業生からのメッセージ

当時のことで、思い出に残っていることがあります。それは、私が入学してから、初めて雄勝町に足を運んだ時のことです。私は、震災から4年が経っても、依然復興が進まず、倒れたままのガードレールを見て、「自分がここで、鯉のぼりをあげて、意味があるのだろうか。雄勝のために、何か出来ているのだろうか。」と不安になっていました。しかし、鯉のぼりをあげて、現地の方々と話すと「鯉のぼりを見ると元気がでる。」「この地を忘れず、いつも来てくれていることが、何より嬉しい。」との声が。そして、その後ろには2015年版のともいきカレンダー。5月の写真は、「旧雄勝総合支所にかけられた鯉のぼり」。この時、私は「息の長い支援」の大切さを実感したのです。「たとえ一人一人に出来ることがわずかであっても、淑徳大学の先輩たちが『Together with him』の精神で、雄勝町と共に歩み続け、支援をしてきた。その後輩である私たちが、その思いを受け継ぎ、また共に歩むことに意味がある。」このように考え、私は淑徳大学の一員として、また一人の人間として雄勝町の支援を続ける決心をしました。そして、この支援の輪を、さらに広げていこうと思いました。
淑徳大学の学生と教職員が一丸となって繋げてきた、「息の長い支援」をこれからも大切にしてください。共に歩み続けることで、小さな一歩が、大きな一歩になります。時が経てば、支援のかたちも変わっていきます。どのような支援が今、求められているのかを考えて、よりよい支援につなげていってください。
そして、新たな災害が起きた時に、我々がまた共に、誰かの力になれればと思います。私も、卒業生の1人として、「ともいきの精神」を大切に歩んでいきます。

教育福祉学科

2019年卒業 三浦 知也

2011年3月11日、震災発生時刻。当時私は本大学千葉キャンパスの15号館最上階におりました。突然の地震と共に、周辺の置物や棚が次々に倒れていく光景。逃げようとも考えられず、壁にしがみつく事しかできなかったあの記憶は今でも忘れられません。
皆さんの中にも似たような、あるいはそれ以上の経験をされた方もいらっしゃると思います。その時に「当たり前の日常が一変した」ことを少なからずイメージされたのではないでしょうか。そしてそのことを皆さんはどのように捉えたでしょうか。
10年前の私自身は、震災のその物理的影響からやはり悲観的なイメージを持っていました。被災地を訪問した際、「これが地元だったら…」と思うとその後は考えたくもありませんでした。しかし10年経った今思うのは、「震災は確かに日常を一変させる程に甚大な爪痕を残した。でもだからこそ、その日常がいかに大切であるかを学ばせたのではないだろうか」ということです。これは現在の新型コロナウイルスの影響にも通じる所があると考え、より一層「当たり前の1日を大切に生きよう」と思うようになりました。
自然災害を記憶に留めて語り継ぐ。自然災害を学びや気付きと捉えて次の行動に移す。どちらも正しい選択ですし、他にも何か選択肢があるかもしれません。皆さんにとって最善の選択は何か、この機会に是非考えてみてほしいと思います。

社会福祉学科

2012年卒業 坂井田 圭二

東日本大震災から早10年、復興された街並みを見る度、そこに生きる人の強さを感じます。学生の頃、災害救援ボランティアとして友人達と活動もしましたが、被災地の方に逆に勇気を貰うことも多々ありました。亡くなった方の遺影に復興を強く誓う現地の方の姿を見て、自身を改めて見つめ直す機会を頂くこともありました。ボランティアは決して相手を助けるためだけの活動ではありません。その人たちと共に過ごし、体験や感情を分かち合うことで、自分自身に新たな気づきを与えてくれるものです。東日本大震災の被災地支援に尽力された淑徳大学の皆様にとって、その経験がかけがえのない一生の宝になることを心より願います。

社会福祉学科

2008年卒業 安藤 悠

初めて雄勝を訪れた時点で震災から2年経過していたものの、当時の雄勝の姿に同じ日本で起こった現実であることを衝撃と絶句という言葉でしか表現できませんでした。

豊かな海に囲まれ、自然豊かなこの町に何かなす術はないか、少しでも雄勝を盛り上げ、雄勝という町が持つ本来の魅力を伝えるにはどうしたらいいか、とにかく何か出来ることはないのかと必死に模索していました。

昨年からのコロナ禍の影響で雄勝へはしばらく行けていませんが、高台移転も進み町の姿だけを見れば復興は進んでいると言えるかもしれません。 しかし、その中にも我々には見えないところで住民の方の苦労や、復興に向けた現状に様々な思いを抱いている人も多く、復興という言葉の重みと本当の復興とは何かを改めて考えなくてはならないと感じています。

もう10年経ったと考えるか、まだ10年なのかと考えるか、感じ方は人それぞれと思います。 しかし、この震災は誰にとっても決して他人事ではありません。 災害の多い日本だからこそ、自分や大切な人を守るためにも、過去の震災から学び、大切な人や自分を守る術を身に付けることも復興支援につながる意識改革だと思います。 過去から学び未来へ繋げるための一歩をぜひ皆さんにも踏み出してもらえたら嬉しいです。 学生に伝えたいこと まずは、ぜひ雄勝へ行ってみてほしいです。 雄勝の海産物は本当に絶品です。 現地の名産や魅力に触れながら現地を知ることも1つの復興支援だと思います。 4年間という時間の中で、皆さんに少しでも雄勝という町の魅力を知ってもらえたら嬉しいです。

今はコロナ禍で難しいと思いますが、雄勝の魅力をまずは感じ、そしてその魅力を発信できる機会や人が増えてほしいと願っています。 

震災という1つの出来事からしても、そこから出てくる課題や視点はとても多いです。 1つの視点にとらわれず、多くの事を感じ学び、そしてその思いを社会に出たときに活かしてほしいです。

社会福祉学科

2017年卒業 髙木 直揮

当時、私は15号館の高層階にて大学パンフレットの取材中に揺れが起こりました。何も分からないまま非常階段で避難した恐怖は今でも覚えています。

被災された方々の為に活動したいと考え、大学からの現地派遣でのボランティアに参加させていただきました。この経験が後の学生生活や卒業後に大きく影響しました。

現在、議員秘書をしており、令和元年の台風15号の際、被災された方々の事を思い、迅速に被害状況把握や自治体との連携、報道情報の修正等を行いました。特に多古町は停電により断水。電話も繋がらず、現地へ赴き、自衛隊による支援の必要性を上申、給水支援等の要請に関わりました。

災害や事故、疫病等、いつ何が起きても対応できるよう知識や経験などの準備が必要です。何よりも、辛い思いをされた方のお気持ちに寄り添えるよう行動することが大切だと東日本大震災での経験を通して学びました。

コミュニティ政策学科

2014年卒業 津田 康平

2011年5月1日、1か月10班交代体制のボランティア団の1班として初めて石巻市に足を踏み入れ、避難所の大須小学校へ向かう途中、真二つになった北上大橋と、そのすぐ横の大川小学校を見て、「息が詰まる」という言葉を初めて体験しました。 足元に広がる生活の跡と目前に広がる海と空の美しさのアンバランスさ。体に纏わりつくような独特な空気の重さと、津波を被った町の匂いを今でも鮮明に思い出し、心の中で手を合わせる毎日です。当時私は様々な発表の場で、「瓦礫は瓦礫ではなく誰かの財産。私は二度と瓦礫という言葉を使わない」と訴え続けてきました。それは、「自分の家や学校や職場を、『瓦礫』と呼ばれる事はどれだけ悔しく悲しいことだろう」と考え、そして目の前で肉親や友人が津波に飲まれても、「雄勝が好きだ」と言う人々が居ると知ったからです。何ができたか?私たちは「何もできなかった」。どれだけ何をしても満足できないその思いが、当時の我武者羅だった私たちの背中を押したのです。

10年が経ち伝えたいこととして、2011年5月1日に初めて石巻市に入り私が衝撃を受けたのは、東京から新幹線で僅か2時間かからない場所であのような大災害があったにも関わらず、首都圏はすでに平常の生活を取り戻していたことでした。 今、更に10年という月日が流れ、東日本大震災は人々の中で過去の出来事になりつつあります。その中で人々に“語り継ぐ”ということも大変難しくなってきたと感じます。 しかし忘れてはならないことは、自然災害は決して「他人事」ではないということです。実際にこの10年間、あらゆる場所で様々な自然災害が発生しました。いつ自分が被災者になるか分からないという危機感は持っていて間違いないことだと言えます。

風化していくことと忘れていくことは違います。あの大震災を経験し、語り継げる人間がいる限り、東日本大震災を“歴史”と言い換えるにはまだ早いのです。震災は、まだ終結してはいません。

実践心理学科

2012年卒業 倉持 裕子

最初は思うことが色々ありすぎて分からなかったです。

1歩を踏みだせることをするにはどうしたらいいのかな… と感じていました。

10年が経ち、伝えたいことは、人生の中で各々に役立てているのかなと思えるようになってほしいです。

学生に伝えたいことはボランティアの経験は必ずいい事があります。だからこそ、1度は行ってみるといいように思えます。

淑徳大学に新しい風・発展を期待しています。

実践心理学科

2016年卒業 伊藤 雅貴

教員からのメッセージ

2011年3月11日は、私はまだ前職に携わっていました。帰宅後にテレビを見て、「まるで映画のCGを見ているようだ」と、茫然としたことを覚えています。

2012年度から淑徳大学で教えており、2017年2月に、大学の地域支援ボランティアセンターの東日本大震災復興支援プログラム「第4回 スタディーツアー」に参加させていただきました。被災地を訪れ、被災された方のお話を伺うことで、改めてあの災害の恐ろしさを確認しました。

大学では、毎年、新入生が東日本大震災を体験した年齢が低くなり、いずれはあの大震災を知らない学生が入学してくる、という現実に向き合わざるを得ません。では、教員として何ができるのか? 私は、多様な科目であの大震災を学生に伝えること、これに尽きると思います。

例えば、「観光地理国内」という科目では、私自身が撮影した被災地の写真を投影したり、ゼミの視察で被災地(仙台市)に行った際は、震災関係施設を来訪するなどしてきました。

学生が、「ああした災害がもう一度起こるかも、自分も被災者になるかも」と、あの大震災を心にとめてくれるよう、伝え続けていきたいと思います。

観光経営学科

教授 朝倉 はるみ

2017年2月8・9日、人文学部歴史学科の学生4名は、東京キャンパス・ボランティアセンターの支援のもと、宮城県で被災地支援ボランティアを行いました。

8日は、仙台市にある東北大学災害国際科学研究所を訪れ、NPO法人宮城歴史資料保全ネットワーク(以下、宮城史料ネット)の活動に参加しました。当日は、被災地からレスキューされてきた襖から、下張に使われていた古文書を取り出す作業を行いました。何層にも張られた紙を霧吹きで濡らしては剥がし、記録を取って濡らして剥がす、という作業を繰り返します。指先がふやけてボロボロになりながら、みんなで古文書を取り出しました。このように被災地から救い出されてきた史料から、新たな歴史的な発見があるかもしれません。

翌日の9日は、東北大学の佐藤先生のご案内で、石巻へスタディツアーに行きました。まだ復興なかばの市街地を車でめぐり、多くの犠牲者を出した大川小学校も訪れました。津波にのみ込まれてしまった校舎の様子を見て、被害の甚大さと恐ろしさを感じました。海からこれほど離れた校舎が、津波に襲われるとはとても信じられませんでした。また、震災時に人々が津波から逃げた日和山という戦国時代の城跡にも登りました。この城の麓にあった集落の建物は悉く津波にのまれ、ただ唯一、本間さんというお宅の土蔵のみが壊れずに建っていたそうです。現在は、土蔵にあった資料は宮城史料ネットなどに救い出され、土蔵は震災の被害を伝える象徴として公開されています。  

テレビの映像だけではわからない、震災による被害の大きさや復興の現状について学ぶことができました。また、被災しながらも救い出された史料を取り出す作業に携わることもできました。このような機会を与えてくださった宮城史料ネットの皆様、石巻の本間さんをはじめ関係者の皆様には、心より感謝申し上げます。

歴史学科

教授 遠藤 ゆり子

東日本大震災・東京電力福島第一原子力発電所事故から10年となります。震災当初からの何かできないかという思いが募り、平成28年から平成30年まで正課外講座として福島県を中心に被災地を訪問するスタディツアーを企画運営させていただきました。 今あらためて振り返りますと、学生たちは被災地でお伺いしたお話から、身近な命の尊さ、日々の生活を守る大切さ、またこれからの私たちにできることについて真剣に考えてくれたと感じます。そして、温かく迎えてくださった方々の笑顔に励まされ、その土地と人々への親しみと敬意とを抱かせていただくことができました。参加した学生たちは、この節目にきっと心を寄り添わせてくれていることでしょう。 10年の節目を迎えましたが、かけがえのない命と甚大な被害を引き換えに残されたはずの教訓を、私たちは今と未来に生かしていかなければなりません。災害も原発の問題も他人事ではない時代を私たちは生きています。これからも機会をとらえては学生に語り、教訓を新たにしていきたいと思います。 また訪問させてください。お会いできることを楽しみにしております。

教育福祉学科

准教授 小林 秀樹

2011年5月、私は宮城県石巻市雄勝町大須小学校避難所で本学の避難所ボランティアの一員として千葉に戻った合間も身も心もずっと雄勝にありました。当時の避難所の様子は別に書いたので当時現地で見た仮設墓地での経験を述べます。何もないサッカー場一面ほどの広場に人間一人がちょうど収まるぐらいの、重機で四角くえぐられた「穴ぼこ」が50個ほど整然と並んだのが仮設墓地でした。半分はすでに墓碑や花もなくただ土をかぶせられ「埋められども弔われず」といった光景で、ご遺体も還るべき場所に着けず、そこに居合わせた私も身の置き所がなく落ち着かない心地のなか、弔うことの大切さを直観した思いがしました。弔うこと・祈ることは一瞬であれ死者の声をもう一度聴こうとすることであり、もしわれわれがそうした態度を蔑ろにしてしまうと、われわれは傷ついた人の呻きに気づきにくく、傷ついた人を改めてコミュニティに迎え入れケアする利他共生の作法を見失うことにつながるのだと感じます。コロナ禍で、生(存)だけが最上の価値のようになり死者の弔いが後回しになる社会に対するイタリアの哲学者アガンベンの警句もそれを述べていると思います。

コミュニティ政策学科

准教授  本多 敏明

保育所での震災ボランティア活動から10年が経過しました。

学生5名と同僚1名がすでに現地に入っていたので、新幹線の駅でレンタカーを借り、一人で運転して石巻市立吉浜保育所に向かいました。カーナビで示された道が次第になくなり、草原と化した海辺を、轍を手がかりに走ったあの時の光景は、今でも忘れることができません。

ようやく到着した時、迎えてくださった先生方の笑顔に、うれしさと戸惑いの両方を感じたことを覚えています。

吉浜保育所の建物は津波を免れていましたが、「あの時子どもを帰さなければ」という話を聞き、胸が締め付けられる思いでした。

ボランティア活動は、清掃や草取りが中心でしたが、冷たい飲み物等を笑顔で提供してくださり、こちらが励まされているようだと学生たちと話していました。そんな中、持参したパラシュートの遊びを共有した時の子ども達の笑顔が印象的でした。

私は大学に戻って、県内でも被害が大きく、制限の多い生活をしていると聞いた浦安で、子ども達とアートを楽しむ「笑顔プロジェクト」をゼミ活動として行いました。原動力は、石巻の保育士の方々と子ども達の笑顔だったと今改めて感じています。

あの時の笑顔とその意味を、これからも忘れないようにしたいと思っています。

教育福祉学科

教授 槇 英子

2011年5月中旬に宮城県石巻市雄勝町大須小学校避難所での本学避難所ボランティアのひとりとして参加しました。大須小学校に向かうに連れて道路が無くなり、景色が変わり、災害の大きさを改めて受け止め「何ができるのか」と考えたことを覚えています。二度目は2012年8月6日〜10日の5日間、大須小学校と大須中学校の生徒さん達の学習のサポートをする学習支援ボランティアの引率で参加しました。校長先生に「子供たちに大学の素晴らしさを伝え、新しい未来に繋げてほしい」と言われたことを思い出します。三度目は2017年2月に、大学の東日本大震災復興支援プログラムへの参加です。安全を求め高台に住宅地を移す、堤防を高くするなどの復興への道は見慣れた街並みをも変えてしまうという悲しい事実でもあり、東日本大震災を忘れてはいけないと改めて思います。

10年が経ち今伝えたいこととして、10年という時が経ったとはいえ、それでもまだ元の生活に戻れない方々がいるということです。東日本大震災で学んだことは、たくさんあります。対策について、準備について、それらの教訓を情報として正しく伝えていくことで、助けられる命に繋がることを願い、共に考えていきたいと思います。

社会福祉学科

教授 松山 恵美子

災害発生で日常生活は、瞬時に危機状態に陥ります。警察や救急隊、自衛隊が過酷な場から住民の命を救い、医療職が延命に力を注ぐ映像等の報道を目にしてきました。そして、救われた命を福祉分野の我々がバトンを受け取り、生活支援を行います。

10年が経った今でも様々な形で被災地の災害支援は、続いています。

東日本大震災の翌年から福祉系の5大学を中心に実施された「ソーシャルワーカーの声プロジェクト」に淑徳大学の学生と教員が参加しました。この活動は、被災地である宮城、福島、岩手県のソーシャルワーカーが災害支援時に果たした役割をその卵である社会福祉学科の学生がインタビュー調査によって明らかにし、さらにはソーシャルワーカーの必要性を社会に発信することを目指しました。

ソーシャルワーカーの生の声に触れた学生の一人は「生き残った人々の命を静かに守っている」と感じとり、教科書にない事実の数々を発見していきました。

このような学生と教員の発見や現地のソーシャルワーカー(社会福祉士会)の知見を集約し、研究を重ねた集大成として、他大学と共同で『災害ソーシャルワークの可能性 学生と教師が被災地でみつけたソーシャルワークの魅力』を2017年に発刊いたしました。書籍にまとめた被災地での学びが今後も広く活用され続けることを願います。

社会福祉学科

教授 米村 美奈

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