2016年3月アーカイブ

今年で第3回目となる本学学生によるスタディツアーが、3月9日から12日の3泊4日の行程で実施されました。

キャンパスの垣根を超えて、総合福祉学部から3名、看護栄養学部から6名、人文学部から3名そして総合福祉学部前田教授、東京キャンパス職員の藤本、千葉キャンパス職員の冨川が引率しました。

現地では、当時を風化させない活動として震災当時の様子が伺える『伝承施設』を訪問しました。

震災から5年目となる節目を現地で迎え、「自分の目で見て、聞いて、感じる」充実した4日間を過ごし、参加学生は大きく成長したように感じました。


【雄勝硯生産販売組合でのボランティアの様子】

雄勝硯生産販売組合でのボランティアの様子

雄勝硯生産販売組合でのボランティアの様子


【語り部の様子】

語り部の様子

語り部の様子


【特別養護老人ホーム 雄心苑での活動の様子】

特別養護老人ホーム 雄心苑での活動の様子

特別養護老人ホーム 雄心苑での活動の様子


【献花場にて】

献花場にて

献花場にて


【被災地視察の様子】

被災地視察の様子

被災地視察の様子

 

◆中田 紘也(総合福祉学部 教育福祉学科2年)

 私はスタディツアーに「ボランティアとして、何をすることができるのか」というテーマを持って臨んだ。そして、福祉施設や資料館を訪れたりしたり、孤独を感じ自殺してしまうという話を聞いたりした結果、私は地域密着型のコミュニティを作る手助けができるのではないかと考えた。会話をしたり、趣味や得意分野をいかしたりし、少しでも気持ちが安らいだり、落ちついたりするようにしたいと思ったからだ。

 

◆根本 ひかる(総合福祉学部 社会福祉学科3年)

私にとって、この石巻雄勝スタディツアーは「人やものが生息する瞬間」、そしてその経験から、「次の更なる自を探求し、見つけ、そして掴む」、そんな秘めたる心の内を呼び起こす経験でした。普段鎧兜に身を包んだ私から、「自身の原点と足元」に目を向け、それを被災地と、そして、このツアーをともにしている仲間や教職員とが、『同士から同志へと歩みよること』、またそこには『いまと今後歩む一筋の道を見据える力』を研ぎ澄ましていくヒントに紡いでいきたいです

 

◆伊藤 雅貴(総合福祉学部 実践心理学科4年)

 私自身、雄勝スタディツアーに参加したのは3回目であり、石巻市雄勝町に来訪したのは8回目になります。このツアーを通じて幾度となく感じるのは初めて雄勝に来た人も複数回来た人も何かしらの経験や知恵を持って帰れるようなツアーであると考えます。今回は「観て学ぶ、視て学ぶ」というテーマで考えるように、被災したところの現状、伝統の復活、地域の復活をさせれるようにしていくということなのだろうと思われます。

(また、このツアーでは、伝統工芸品の復活させる最初の一部分、そして特別養護老人ホームの清掃、震災当時の話、語り部があり、たくさんのことが学べるツアーになっていると思うので、みなさんぜひ参加してみてください!そして、行ったことない人は是非参加してみてください!)

 

◆高橋 由和(看護栄養学部 看護学科3年)

今回のスタディツアーでは、「自分にできることを見つける」ということをテーマに参加しました。震災から5年経ち、何もない自分にできることがあるのか、被災者の学生ボランティアに対するニーズがあるのかという不安もある中での参加でした。しかし、4日間のボランティア体験などを通して、「共にいる」ということができた4日間だと思います。また、自分がすべきことやできることも現地に立って見つけることができました。同時に普段関わることのない他学部の仲間との出会いも宝物になりました。

 

◆塚越 起子(看護栄養学部 看護学科3年)

地元の方から災害発生時やその後のお話しを聴かせていただき、何気なく過ごす日常が当たり前ではなくありがたいことだと感じました。いつ何が起こるか分からないため、家族や友人と過ごす時間を大切にしつつ感謝の気持ちを忘れずに素直に伝えられるようになりたいです。また、自分の住む地域を知りたいと思いました。長年住む方の声等から地域の歴史を把握し、コミュニティに参加すること、常に危機管理を持って過ごすことの大切さを学びました。

 

◆増田 晴香(看護栄養学部 看護学科3年)

被災地におけるボランティアで印象に残ったことは、震災・津波による被害を受けながらも懸命に今を生きようとする地元の人たちの姿です。東日本大震災から5年経った現在、惨劇の跡を詳細に知るほかに現地の人の思いや伝統品といった石巻の良さも知ることができました。被害を受けながらも地域の伝統を守る取り組みや、今回の被害と教訓を広く伝える地元の方々に生きる強さを学びました。今回の災害を現地のことだけに捉えず、私の地元まで広げて身近なこととして考えてゆきたいです。

 

◆宮澤 紗瑛(看護栄養学部 看護学科3年)

 今回のスタディツアーでは、テレビ等のメディアだけでは分からなかった被災地状況や地元の方から話を聞くことが出来ました。一番印象的だったのが「災害にあったら、周りを気にかける事を意識して欲しい。」という言葉です。災害にあったらまず自分の身を守る、家族の安否を心配することに意識が行きがちだが、新たに学んだこの視点を持って、周りの事にも目を配っていきたいと思います。このツアーに参加したからこそ、学んだ事、出来る事を実行していきたいです。

 

◆長岡 真子(看護栄養学部 栄養学科3年)

 東日本大震災のスタディツアーを通して、一度失ったものを取り戻すのがこんなにも難しいものだということを実感しました。失ったものには、ひとやものと様々あるが、目に見える復興より目に見えない復興がより大切であり、時間を有するものだと学びました。

 また、地元の海と共存する中で景観を失わずに津波から守るための対策や避難訓練の取り込みを見直し、将来に活かしていきたいと強く感じました。

 

◆前田 彩花(看護栄養学部 栄養学科3年)

雄勝のボランティアに参加する前は5年経った今、自分に何が出来るのか、これからどのように向き合っていけば良いかを考えたいと思い参加しました。現地に行くことで感じる事、考える事はたくさんあります。一番感じた事は、災害を甘くみてはいけないという事。同じ事を繰り返さない為にどうするべきか考え実行する必要があると思いました。様々な学科の学生と取り組む事で色々な意見がありとても勉強になりました。

 

◆成井 勇人(人文学部 表現学科2年)

 「私たちにできることは何だろうか。」

 この問いの答えを求めるために、私はこのツアーを通して、初めて被災地へ足を運びました。

メディアでは、復興は徐々に進んでいると伝えていますが、実際に現地へ入ると、まだまだ途中段階であるということが実感できます。頻繁にすれ違う工事用車両や、仮設の建物などが並ぶ光景から、完全には元の生活を取り戻せていないことも伺えました。しかし、現地の方の、前向きに進んでいこうとする姿には、胸がいっぱいになりました。

 私たちにできることの答えは、1回の訪問では見つかりません。今後とも、被災地へ足を運び続けることが、その答えを求める鍵となるのではないかと、今回のツアーに参加して思いました。

 

◆根津 瞳(人文学部 表現学科2年)

 私は表現学科に在学しているので、被災地を自分の目で見て、また現地の方に話を聞きそれらを映像にまとめたいと思い参加した。

 中でも一番印象に残っている事は、雄心苑にて「震災から5年が経ち、今人々に伝えたいことは?」という質問に対し、「3.11を語り継いでほしい。」と答えていただいたことだ。3.11があったという事実だけでなく、そこから学んだ改善点をどう今後に生かしていくかということを、内容や見せ方など様々な視点で“伝承”していけるような映像を残していきたい。

 

◆樋口 貴郁(人文学部 表現学科2年)

 今回初めて、被災地を直接目にしたのですが、凄く寂しい雰囲気を感じました。震災の傷跡が深く残っている風景を目の当たりにし、この場で多くの命が失われたと考えると悲しい気持ちになりました。

 しかし、現地の方々は、しっかり前を向き、歩んでゆこうとしています。そんな方々と触れ合い、私は、後ろ向きな自分が恥ずかしくなり、考えを改め『前向き』に自分の心を奮い立たせました。『前向き』を忘れず、これからの生活、ボランティア活動を行っていきたいです。

 

はじめに

震災から4年が経ち、被災地は少しずつ落ち着きを取り戻しているものの、宮城県石巻市雄勝町の復興は、過疎化と相まってまだまだ道半ばである。

 本研究は、歴史に残る大災害を、現地の方々(土の人)と本学学生(風の人)が出会い、被災者の語りに耳を傾け、意見を交わしながら、相互の交流と理解を促進し、震災を風化させないために企画された。世代や住む地域、体験の違いを越えて未来を築いていくための研究に取り組んだ。

 

研究の目的

1.本研究は、本学がこれまで震災支援を通して関係を築いてきた石巻市雄勝町において、被災者の方々が胸に秘めている被災の記憶を学生が傾聴することによって語りを促し、それを言語化し活字化して後世に残すことを第一の目的としている。
2.ソーシャルワーカーを目指す学生一人ひとりが真剣に被災者と向き合い、寄り添い、耳を傾けて、その心を受け取ろうとする共感力と傾聴力を高めることを第二の目的としている。
 
研究の方法
 
1.研究実施体制:教員1名(山口)と学生9名で研究グループを組織して実施する。
2.第1段階「学内での事前学習」:石巻市雄勝町の震災前後の状況等について、資料や映像を通して事前学習を実施する。
3.第2段階「現地での準備(プレ)調査」:現地を訪ね、現地に身を置き、震災の状況を体感し、夏に予定しているインタビューに向けてプレ調査(対象者1名)を実施する。
4.第3段階「現地での本調査」:夏休み期間に3泊4日で現地を訪問し、被災者の方々9名に対して、学生2名が1組となり訪問インタビューを実施する。
5.第4段階「学内でのまとめ作業」:インタビュー記録を整理し、語りの言語化(活字化)に取り組む。また、学生自身が体感したことの言語化作業を行う。
6.その成果を報告書または報告会にて発表する。
 
今回の発表内容について
今回の発表では、第2段階における以下の2点について報告する。
1.被災地(石巻市、女川町)を訪ね、その人々と出会い、当時の様子を頭の中で想像しながら、今を見つめ、体感したことについて。
2.1名の被災者の方にご協力をいただき、プレインタビュー調査を実施したことについて。
 
被災地への訪問
 現地を知り震災の状況を体感するために、以下の場所を訪問した。

日和山公園、雄勝病院、雄勝硯生産販売協同組合、大川小学校、女川町

 今回の発表では、それぞれの場所の概要や被害状況、訪問することで感じられたことについて発表する。

日和山公園

概要

・標高56m、旧北上川河口に位置する陵丘地である。

・かつて松尾芭蕉も訪れ、石巻市内を一望出来る場所として有名。

・天気が良い日は、牡鹿半島や松島、蔵王の山々などを見ることが可能。

・標高56mの日和山は、震災時、数え切れない人が避難した。

・高さ6m超えの大津波が、目の前の街並みや車を押し流した。

・同時発生の津波火災により、燃え上がる街の景色となった。

・避難した人々は、絶望感とともに家族、友人の無事を祈りながら夜を明かしたそうだ。

その場に立ってみて

 日和山公園の石碑にも書いてあるが、自分の命は助かったが、家や街中、木々までも流されている光景を目の当たりにしたのだから、当時の状況や心境を簡単に想像してはいけないと感じた。

理解すること

 今、被害が一望出来る場所として観光名所であり、復興支援のために全国から人々が来て、当時を知ることは良いことである。しかし、当時を思い出して辛い気持ちになるなど、4年経った今でも傷は癒えていないということを被災者以外の人は理解する必要があると感じた。

雄勝病院

雄勝病院

雄勝病院

概要

・平成1741日に16町合併により「雄勝町国民健康保険 病院」から「石巻市立雄勝病院」へ名称変更。

・雄勝病院は雄勝湾沿いに建てられていた。

3階建てで高さは15m本館と棟続きの新館で建てられており、

  鉄筋コンクリートの建物であった。

現在、雄勝病院は完全に取り壊されており、現場には慰霊碑が

  建立されている。


被害状況

・入院患者は40全員が死亡。

・職員は病院にいた3024が死亡、または行方不明となった

訪ねてみて感じたこと

 文字や写真だけでは、雄勝病院の立地や周辺環境のイメージが湧かない部分があった。訪れてみて、雄勝病院は海岸との距離が近いことや、その間には防潮堤と県道だけであることを確認する事が出来た。このような立地により、津波の到達が速くなったのではないだろうか。


雄勝硯生産販売協同組合

雄勝硯生産販売協同組合

雄勝硯生産販売協同組合

概要

・雄勝硯、雄勝石スレート、雄勝工芸品等を生産・販売。

・平成26年6月には震災後最大の念願であった仮設工房が、多くの 人々の支援のもと開所した。

・最近では硯や食器以外にクラフト製品の製造や、テーブルウエアの開発にも力を入れている。

・雄勝石を加工した石皿は国内外からも高い評価を受け、産業の復興を目指し海外でも展示会など様々な活動を行なっている。

工芸品の素晴らしさや雄勝の存在を伝える

工芸品の素晴らしさや雄勝の存在を伝える

工芸品の素晴らしさや雄勝の存在を“伝える”

 雄勝硯は600年続く歴史と伝統があり、我が国が誇る伝統的工芸品を守り続けていかなければならない。そのためにも、伝統ある工芸品の素晴らしさを、より多くの人に知ってもらいたいと思った。硯組合で行なっている事業や雄勝石のことを様々な人に知ってもらうことが重要だと思う。こうした活動によって、多くの人に工芸品の素晴らしさを知ってもらう機会が増え、雄勝の存在を伝えていくことができると思った。

実際に見学をして感じたこと

 平成26年6月には震災後最大の念願であった仮設工房が、多くの人々の支援のもと開所した。今回硯組合を見学して、震災によって大きな被害を受けたが、たくさんの人に支えられながら復興を目指し歩んでいる人々の思いが工芸品を通して感じられた。

 

大川小学校

概要

・石巻市立大川小学校は、宮城県石巻市釜谷山根にある公立小学校である。

・小学校は震災当時のままの姿を残している。また、犠牲者を弔うための慰霊碑と母子像が設置されている。

被害状況

・児童108名のうち74名、教職員13名のうち10名が亡くなり、スクールバスの運転手も亡くなっている。

・校舎は割れたガラスが散乱し、倒壊する恐れもあった。

・周辺の集落を含め、いまだ復興には至っていない。

小学校を自分の目で見て

 小学校を実際に見て被害にあった子どもたちの気持ちはどうだったのか、恐怖以外の気持ちも感じたのではないかと思った。また、大切な家族を亡くした小学校を壊してしまいたい人、被害を伝えたい気持ちと失った悲しみの間で葛藤しつつも、この場所を残したい人がいるのではないかと考える。

自分にできること

 私は被災していないので、被災された方の気持ちを語ることができない。しかし、被災地で見聞きしたことは残していくことができる。記憶というものは時間とともに薄れていくものではあるが、尊い犠牲があった出来事は忘れてはいけない。私はしっかりと覚えておき、それを伝えていきたい。


女川町


概要

・宮城県の東、牡鹿半島基部に位置する。

・日本有数の漁港である女川漁港がある。

・前九年の役(平安時代後期)の頃、豪族 安倍貞任が源氏方の軍と

  戦った際に、一族の婦女子を安全地帯である「安野平」に避難させた。

  そこに流れる川の名を「女川」としたことが、この町の名の由来である。

被害状況


・町人口10,016名のうち、574名が命を失った。

・震災行方不明者の中で、253名の死亡届が受理された。

・住宅総数4,414棟のうち、3,934棟(89.2%)が被害を受けた。

・最大津波高は、17.6mであった。


女川町地域医療センター

・震災当時、町内唯一の医療機関である女川町立病院だった。

・海抜16mの高台に位置しているものの、

  津波高が1階の床から1.95mにまで


女川町地域医療センター

きぼうのかね商店街

・2012(平成24)年4月29日に仮設商店街として開設された。

・今では、被災地最大規模の仮設商店街に育っている。


きぼうのかね商店街

きぼうのかね商店街

「ここまで津波は来ないだろう」

 海抜16m高台にある女川町立病院に避難していた人の中には、このように思っていた人も少なくないだろう。しかし、津波により1階部分は完全に浸水した。2階、3階に避難していた方々は、自分のすぐ下まで津波が押し寄せていたのだから、とても不安で心細かったと思う。

とても気さくな商店街

 青果店や衣料品店など様々なお店に加え、交番や金融機関なども揃っていた「ぼうのかね商店街」。どのお店の方々も気さくに迎え入れてくださったため、とても温かい気持ちになると同時に、悲惨な震災を乗り越えて商店街を盛り上げているお店の方々の強さを感じた

宿泊先:亀山旅館

 今回宿泊させていただいた亀山旅館は、創業60年以上続く老舗であり、大須の地で家族経営をされている。東日本大震災では津波の被害を受けず、震災後は平成23年10月頃から再開した。

季節の旬のものや、新鮮な海の幸をふんだんに使った磯料理を提供していて、私たちは、生ウニをいただいた。女将であるお母さんの笑顔にもパワーをいただき、石巻市を訪れた際には、ぜひ亀山旅館に宿泊してほしいと思った。

2.特別養護老人ホーム雄心苑

雄心苑は、雄勝湾と太平洋を一望できる高台に建ち、緑豊かな場所にある。震災発生時、この雄心苑には60名の入所者と数名の職員が出勤していた。

 6月13日、プレ調査のため、10人中1人目である雄心苑の原律子施設長にご協力いただいた。 

 そこでは、原施設長が体験した出来事や当時の想いをお聞きし、インタビュー内容や私たちの感想を以下にまとめた。


インタビュー概要

インタビュー概要

1.対象者の基本属性、地域性等について

   律子 施設長(責任者)

 ・特別養護老人ホーム雄心苑施設長

 ・デイサービス、地域包括支援センター所長 

 

2.発災当時の様子について

  震災時、職員は、日々の訓練が活かされ、咄嗟に行動に移すことができ、雄心苑では一人も亡くなることは無かった。また、避難所として50の住民を受け入れた。雄心苑では、利用者をみることで精一杯のため、住民同士でできることをしてもらった。50名の中から5人リーダーをだし避難者名簿を作り、住民同士の自治組織として機能してもらった

 

3.発災後の施設の対応

  発災後、山形県の施設が利用者の受け入れ先となってくれた。寝たきりの利用者をヘリコプターで山形県の施設へと運んだ。山形県の施設への受け入れにあたって、利用者66名の個人記録を4枚複写のカーボン紙を使用し、手書きで作成した。

4.震災の体験から伝えたいこと・気持ち

 ・4年経っても悲しい出来事であり、この想いは変わらない。

 ・記録などに残しておいて伝えてほしいが、そのためには気持ちを

  リセットしなければならないなど勇気がいる。

 ・今生きていることを大切にすることが大事。

インタビュー内容の感想

・原さんの前向きさと、施設長という立場から逃げずに立ち向かった強さを感じた。

 震災当時は、これから先の不安や心細さを感じ、余裕がない状況の中、施設長としての決断と責任を持ち、最後まであきらめずにその場を離れず居続けたことが、原さんの強さであり、 前向きさだと感じた。

 気持ちが癒えることはない。

 遺族や大切な友人を亡くした人がいる中で、自分が助かって良かったと純粋に笑顔で思う日はこないかもしれない。しかし、それでも人は前を向き、震災への備えや対応を強化し、復興へと周りの人々と支え合いながら前より強く生きていくのではないかと思った。

 もし、自分が震災にあったとき...

 震災当時、住民が約50名避難してきた。施設も精一杯だったため、住民同士が支え合い、自分たちでできることはしてもらった。震災時には、ボランティアの協力も必要だが、それよりも被災している人たちの支え合いの力がとても大きな力になる。もし、自分が震災にあったときに、その日初めて会った人たちと助け合えるかと考えると、正直不安だが、自分にできることを探し、あきらめずに行動できる人になりたい。

 

インタビュー技法の振り返り

・相手のペースに合わせる

 原さん自身、積極的にお話をして下さったため、自分から質問をすることは2,3回であった。しかし、原さんが震災の出来事を思い返し、自分の中で整理し直してから学生に話すことで、気持ちの整理に繋がる機会になるならば、傾聴を通して、気持ちを受けとめようと感じた。

 

・「相槌」による意思表示

 原さんが話す内容は驚くことばかりだったが、意思表示は簡素なものになってしまった。さらに話について共感して内容の濃いものにするならば、相槌のバリエーションを豊富にし、原さんに聞こえる声で相槌するべきだった。

 

・「沈黙」の間

 話した後の沈黙は、感情などの大事なことがらが述べられるため、ある程度の間を空ける。しかし、沈黙後の言葉に期待して、間を空けてしまい、原さんに話の催促をする形になった。沈黙の間を大事にしながら、自分から「その時のお気持ちは?」と質問するのもいいのかもしれないと感じた。


以上が、本研究の第2段階における中間報告である。

 現在本研究は、第4段階に突入している。第3段階で実施したインタビューの逐語録を作成し、インタビューにより学生自身が体感したことを言語化するとともに、本研究の報告書を作成している。

 東日本大震災での出来事は、決して忘れてはならないことである。私たち山口ゼミは、本研究により、震災を風化させず後世に残していくことで、震災を経験した人だけでなく、震災を知らない次の世代の人にも、このことをつないでいきたいと考えている。