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<プログラム名称>

「復興支援ボランティアによる体験型学修および対人臨床への導入的アプローチ(福島県いわき市:多世代広場事業における協働的学び)」 

*東京キャンパスボランティアセンター、淑徳大学短期大学部こども学科 *父母の会協賛による共生体験。

 

<場所>福島県いわき市:NPO法人いわき緊急サポート主催「すくのび広場」

 

<実施概要>

実施概要

起案者は震災の翌年(2012年4月)より四年間福島県内の指定保育士養成施設に勤務し、震災後の被災地での保育士養成に、地域貢献に携わってきた。文部省科学研究調査費(基盤研究C)も三年間取得し、本学淑徳大学短期大学部に異動後も「福島県いわき市における幼児の発達支援と保護者支援に関する臨床的研究」(文部省科学研究調査費:基盤研究C 平成28年度~30年)として継続研究を行ってきている。また、その過程で地域の子育て、親支援に従事する保育所・幼稚園、NPOの方々と継続的な関係を持ち、復興への共同作業者として参与してきた。今般のコロナ禍により2020年度は実施できなかったが今年一回目の緊急事態宣言が発出される直前の2020年2月半ば(平成28年~令和元年度)まで夏、冬の年2回以上計9回、継続的に実施してきた。

 本プログラムは、被災地で復興に献身的に従事するNPO「いわき緊急サポートセンター」(前澤由美代表)と連携し、市内の百貨店の一角にて行われている子育て支援:「すくのび広場」にて子育て・保護者支援のボランティアとして参加することを中心に実施してきた。震災後5年余~10余年が経つ福島県内の実情を実際の体験によって知り、復興に寄与するNPOの方々、親子と実際にかかわる中で学生のコミュニケーションの質的向上の場、対人臨床・支援職への導入的な経験の機会とするものであった。

参加学生は特に短期大学部初年次をメインとするものであり、短大入学後、学年後半から保育実習、教育実習に臨む前の段階で、対人臨床の基礎および多様なコミュニケーションを直接の対話と体験によって身に付けること、震災直後の避難所から始まった「多世代広場」「子育て支援」広場の実情と震災からの復興の現状についても理解し、福祉と教育、障害や子育て支援に関しても視野を広げる総合的な学びの提供の場として企画された。また、コミュニケーションや対人関係に課題のある学生、対人関係で難しさを抱える学生にも積極的に声をかけ、特に短期大学部では少数派の男子学生にとって主体的でアクティブな学びの場となることも見込んだ。

 

<実施の目的と内容>

・学生には被災地の現状と支援の実際に触れることを通して、以下の事項に関して経験的に学び、過去の支援の経緯を理解するとともに今後の継続的な支援の必要性を実感することを目的とした。

・いわき緊急サポートセンター:前澤代表から福島県の子育て支援・サポートの経緯と実際についてレクチャーを受け、福島県いわき市の子ども・保護者とかかわり、子育て支援の実情について理解する。

・いわき市内の保育の現実に「実際にかかわる」ことで、体験的な学びとする。

・福島県いわき市にて東日本大震災直後から避難所として始まり、今も継続的に行われている避難者                                         および市内の保護者とこどもの支援、障碍者・祖父母の居場所としての総合的広場事業のサポートなど                                            復興支援ボランティアを経験。1泊2日で乳幼児、その祖父母・保護者、障碍児者と交流。                                           

・特に子育て中の親御(父母両方)さんと話し、関わり、遊び、環境整備などを経験した。市内在住の看                                             

護士、保育士、地元の学生(フラガール)、手話落語家:噺亭スコッチ氏とも交流。

・震災以降24時間体制で地域の緊急の子育て(病児・病後児保育と預かりなども)支援を行っているNOP法人いわき緊急サポートの前澤代表、スタッフからも講話、様々な事例などについても訊き、震災後の復興の中で生じてきている課題やコミュニティ、福祉・教育の問題についても体験的理解を深めた。

 

<参加実績>

平成28年9月1 ~ 2日  参加学生7名        平成29年2月24~25日  参加学生3名

平成29年8月30~31日   参加学生13 名     平成30年2月25~26日 参加学生3名

平成30年9月2 ~ 3日   参加学生12名      平成30年12月 1~ 2日  参加学生7名

平成31年2月24~25日  参加学生7名     令和元年 9月 1~ 2日  参加学生13名

令和2年2月14日~15日 参加学生8名   

 

※詳細については平成28年度~令和元年度「ボランティアニュース」にて体験記、報告を毎年おこなっている。

※淑徳大学短期大学部父母の会から、学生の旅費・宿泊費等の手厚い補助を得て毎年実施されている。

以下は初年度第1回、三年目第5回参加学生の感想である。

 

(第一回:参加学生のコメント)

◆いわき市駅前の量販店の四階の一角で震災直後から始められ、今も多くの様々な年齢の子どもとその親御さんが集まる「すくのび広場」に2日間ボランティアに行きました。9月の平日にもかかわらず、多くの子どもが来ることに驚きました。しかし、そのお陰で多くの乳幼児と実際にかかわり、学ぶことができました。子どもたちと遊ぶほかにも、手遊びや絵本の読み聞かせ、製作などの準備、朝の掃除や終了時の片付けなど様々な体験をしました。

実習とは異なり保護者の方と話す機会も多く、貴重な話を聞くことができました。どの保護者も「子育ては大変だけど充実している」、「このような子どもを安心して遊ばせられる広場があることがありがたい」とも言われていました。それらの言葉を聞き、自分自身、保育所や幼稚園でも保護者の声を聞き、保護者のニーズに少しでも応えることが子どものことを考える上で大切なことだと気づくことができました。

 

◆私は、福島県いわき市のNPO法人「いわき緊急サポートセンター」が行っている「すくのび広場」でのボランティアに参加して来ました。東日本大震災から約五年が経ち、いわき駅周辺の再整備された街並みなどの様子からは五年前に大きな災害があったとは思えませんでした。しかし、復興は進んでいても被災した方々の記憶には当時の悲しみが残っていると感じました。今回のボランティアでは、子どもたちと一緒にボール遊びをしたり季節のカードを製作したりしました。初めは、私も子どもたちも緊張していてなかなか話してくれませんでしたが、慣れてくると子どもたちからいろいろ問いかけてくれるようになり嬉しかったです。一歳の子どもを持つ保護者の方から「遠くから来てくれてありがとう」と励ましの言葉をかけて下さり、このボランティアに参加してよかったと思いました。これからも様々なボランティアに積極的に参加していきたいと思います。

 

(第5回 参加学生のコメント)

◆私は今回、福島での復興ボランティアに参加して実習では経験出来ないことを学べたような気がします。「すくのび広場」では子どもと関わるのはもちろん、保護者からお話を聞くことができ、地域の方々ともお話が出来る環境が整っていました。今回は実習前に参加したこともあり、子どもと上手く接せるかなど不安がいっぱいだったのですが、「広場」の子どもたちはとても元気で、一緒に遊んでいた子とお別れする際には泣かれてしまうほど仲よく遊べました。改めて「子どもと関わる職業に就きたい」と思うことができ、いい体験ができたと思っています。すくのび広場に来ている親子の中には外国から来た親子もいて、日本との子育て環境の違いなどのお話を聞くことが出来ました。ボランティアを通じて改めて感じたこと、話を聞いて納得したこと、手遊びや絵本の読み聞かせを実際に行ったこと等、この度の経験で得たことを実習や将来に向けて活かしていきたいと思います。

 

◆今回、いわき市の「すくのび広場」でのボランティアに参加し、たくさんの保護者や子どもたちかかわることができました。ボランティアに行く前は、子どもや保護者ばかりだろうと思っていましたが、年輩の方も来られていて、この「広場」は震災後、思い切り遊べない子どもや保護者だけではなく、高齢者にも集いの場となっていることを実感しました。また、今回のボランティアで私は手遊びやフラダンス、絵本の読み聞かせ等もおこないました。子どもたちが楽しく真剣に取り組んでいたため一緒におこなう私の方も楽しくできました。

今回のボランティアを通じて、今後の世の中には子どもや保護者、高齢者が安心して身を置ける環境の大切さを感じました。これから保育者等、人と関わる仕事に就く私たちがこういった環境を増やしていくことが大切だと感じました。そしてそのために勉学を積んでいき理解を深めていくことが大事だと思っています。

 

尚、本プログラムは 科研費「福島県いわき市における震災後の保育の現状と課題」(研究課題/領域番号25381109 基盤研究(C) 2013~2015年 研究代表者:前正七生)からの継続研究である「福島県いわき市における幼児の発達支援と保護者支援に関する臨床的研究」(研究課題/領域番16K12389基盤研究(C) 2016~2019年 https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-16K12389/ )において、震災後十余年までの被災地の保育、幼児教育と保育者養成の実情、コミュニティーにおける新規かつ継続的な課題を可視化した研究と連動するものでもある。

一連の研究とプログラムは震災からの復興を被災地の「内と外」の両視点、共に歩む協働として考え、「現在進行形の」支援としての連携を構築することを目的とするものである。同時に、「被災地外部」の人間にとっても、身体を通した自らの言葉として語り続けることが、来たる「少子高齢」「多文化共生」「多様性」を受容する社会のヒント、モデルとなり得ると考えている。※現在も震災後10年に連なる継続研究として科研費(基盤研究C)を申請中である。

すくのび広場

<関連する研究成果等>

[雑誌論文]

・ 「 震災後のいわき市における子どもの発達支援・親支援の実際と多世代交流広場の展開 ―震災後10年に連なる臨床的な「語り」へのアプローチ」2019

著者名/発表者名 前正七生 雑誌名 淑徳大学短期大学部紀要 巻: 59号 ページ: 102-111

 

・「 震災後の保護者支援、発達支援の現状と課題 -”場”と”育ち”の語りを中心に 2018

著者名/発表者名 前正七生 雑誌名 淑徳大学短期大学部紀要 巻: 第58号 ページ: 117-127

 

 ・「 「主体性」と思考を育む震災後の保育士養成への試み  ―養成課程における科目編成とルーブリックの可能性―」 2017

著者名/発表者名橋浦孝明(いわき短期大学)、前正七生(淑徳大学短期大学部) 雑誌名 『いわき

短期大学紀要』 第50号  巻: 第50号 ページ: 25-44 査読あり / 謝辞記載あり

 

・「幼小連携を意識する「新たな」教育課程の現状と課題 -養成教育からみたコンピテンシーベースの新学力・子ども観による評価可能性―」 2017

著者名/発表者名前正七生 雑誌名 『淑徳大学短期大学部紀要』 巻: 第56号 ページ: 15-40

 

 

東日本大震災復興支援学習いわき合宿まとめ(鏡ゼミケーススタディ)

 鏡ゼミケーススタディは、2013年から毎年東日本大震災で甚大な被害を受けた福島県いわき市を訪れ、NPO勿来まちづくりサポートセンターの活動を中心に、現地の震災復興とボランティア活動の状況を調査した。

2020年は11月14・15日、千葉キャンパス合宿等のガイドラインに従っていわき合宿を行った。

 

2013年

いわき合宿

いわき合宿

いわき合宿

東日本大震災及び東京電力福島原子力発電所による事故で被災した地域の今日の状況と復興については、長期間現地を訪れることによって、現地の復興状況、特にまちづくりについての確認を行うことができた。さらに、震災で街が壊滅状態になった小浜・岩間地区でのNPO勿来まちづくりサポートネット(代表舘敬氏)の様々な復興支援活動は、学生にとっても貴重なお話で、大変勉強になったと同時に大きな感銘を受けた。


2014年

いわき合宿

いわき合宿

いわき合宿


2015年

いわき合宿

いわき合宿


2016年

いわき合宿

いわき合宿

さらに、東北地方の震災復興の象徴として活動したスパリゾートハワイアンズでは、震災直後の約600名の宿泊客を東京圏に無事に届けるため、18台のバスの確保や帰路の道路状況の確認など、昼夜を問わず尽力した状況をマネージャの野木薫氏から伺った。いわき市小浜・岩間地区視察のねらい いわき市勿来は、白川、根津と並ぶ日本三大奥州関の一つ。そのいわき市岩間地区では94世帯が被災。そのうち10世帯が同地域で住宅を建設。13世帯が高台移転(小原地区)約70世帯は地区外移転となり街が壊れた。震災から9年が経過し、復興公園も整備された一応落ち着いた感はある。しかし生活は厳しい、特に、原発による避難をしている人々の生活はいまだに安定していない。人々は不安の中で生活しており、その中でも少しずつ街が変わっていく姿を見た。


2017年

いわき合宿

いわき合宿

いわき合宿


2018年

いわき合宿

いわき合宿

いわき合宿

②      勿来まちづくりサポートセンターの講話のねらい

勿来まちづくりサポートセンターは、いわき市勿来地区で生まれ育った仲間の支援を目的に立ち上げられたNPOで、この活動が、勿来地区復興災害ボランティアセンターに発展させた。そこでは、行政よりも早く、各地からのボランティアの受け入れを行った。ボランティア希望者受入数は4300人。センターでまず取り組んだのは、区長等に協力を求めて地区の名簿作りを行った事。自治体は非常時にもかかわらず、名簿の開示を拒んだ。そこで、自分たちの力で作り上げ、全国からのボランティアを受け入れ、被災者とボランティアを繋ぐ、マッチングの重要性を語っていた。

勿来サポートセンターでは、復興モニュメントの構築、勿来の復興際など、勿来地区の復興活動を常にリードしてきた歴史があった。

毎年学生は、各自事前にテーマに沿った研究を行い、冊子を作成する。その中で疑問に思った点などを現地で調査し、さらに質問をし、活発な意見交換を行い、今日の復興及びまちづくりの課題を整理してきた。また、2020年はコロナ禍の中、宿泊はすべて個室とし、夕食の際にはソフトドリンクのみで短時間で終えた。


2019年

いわき合宿

いわき合宿

いわき合宿


2020年

いわき合宿

いわき合宿

いわき合宿

いわき合宿


③ハワイアンズの被災と復興支援

翌日は、福島復興の象徴であるハワイアンズに伺った。常磐炭鉱閉山に伴う人員整理を少しでも食い止めるために、常磐ハワイアンセンターを作った。構想当時は、「福島でヤシが育つか」と揶揄にされたが、今日事業は軌道に乗った。街づくり新しい形であった。さらに、映画「フラガール」のヒットや東日本大震災時の全国行脚などで、スパリゾートハワイアンズとフラガールは、復興の象徴として全国にその名が知られた。

地震の2日後には、618人の宿泊客に対して、帰路の確保が不明のまま、大型バス18台を夜通しで調達し、11時間かけて東京へ到着し、多くの客から感謝の言葉をいただけたとの話には思わず胸が熱くなる思いを感じた。9年半の歳月は、地震による生活の格差を生み、確実に復興により歩みを進めている人がいる一方、いまだに一歩を踏み出せない人々がいて、被災地支援の難しさを感じた。

鏡ゼミケーススタディが福島県いわき市勿来地区を訪れて8年となった。確かに街は、変容し、道路や住宅は整備されてきた。しかし、以前の街とは異なり、賑わいは感じない。人々の息吹がかつてのように取り戻せたと感じるのは、いまだに点でしかない。

同時に、人々の関心は薄れ、震災や原発に影響された日々は段々と風化していくのかもしれない。しかし、東日本大震災があった事実、それによって人々の命が失われ、生活に大きな影響が出て、それが今も続いていることを決して忘れてはならないと感じる。

学生にとっては、舘さんや野木さんのお話を伺うたびに、多くの教訓を得ることができた。

最後に舘さんが「僕たちの勿来まちづくりサポートセンターの震災復興の活動は10年を区切りに終えようと考えている。これからは、本来のまちづくりの方に力を注いでいきたい。」とつぶやいたのが印象的であった。

しかし、いわき市にはいまだに双葉町の出張所が置かれ続けている・・・・。

いわき合宿

いわき合宿

いわき合宿

正課「現代人の生活倫理」の科目担当者である小林秀樹ならびに魚谷雅広は、授業での学びを深め、被災地の復興支援とともにこれからの私たちのあり方・生き方について実地において考えるスタディツアーを「正課外講座」として行った。

平成28年に11名、平成29年に6名、平成30年に11名、三年間で延べ28名の学生が被災地を訪問することができたが、このツアーは特に本学1期生の細谷昭夫氏、10期生の北村雅氏・岩佐勝氏、13期生の佐藤修峰氏といった本学OBのみなさんのお力添えもあって実施できたものである。ツアー・研修でお世話になった他の多くの方々とともに、この場をお借りして改めて御礼申し上げたい。

 

●2016(平成28)年

「パンと野菜の店 えすぷり」さんにて

「パンと野菜の店 えすぺり」さんにて


大河原多津子さんの人形劇「太郎と花子の物語」

大河原多津子さんの人形劇「太郎と花子の物語」

 

常磐道車窓から

常磐道車窓から

 

請戸地区

請戸地区

請戸地区

 

本学OB佐藤さんによるご講演

複合型介護支援サービスを展開されている本学OB佐藤さんによるご講演

 

【学生のことば】

今回のスタディツアーでは、日新館をはじめとする過去の福島と震災後の現在の福島という観点から人間のあり方、生き方について考えることが出来たように思う。詳しくは各報告書に任せることとするが、いずれのメンバーもこれからの生き方について考えることがあったようである。

 それと同時に、多くのメンバーが福島で見たこと、聞いたこと、また感じたことなどを自分の中だけに留めるのではなく、より多くの人に語り継いでいきたいと考えていることも、このツアーの成果であると思う。学生の身分の私たちにできるなによりの復興支援。ボランティア活動の参加や福島への募金など様々なことが考えられる。どれも大切なことだが、福島で見たこと、聞いたこと、感じたことを「忘れないでいること」、それらを友達や家族、周囲の人間に「話すこと」ことこそがなによりの復興支援につながると考える。人間の記憶は、時の流れと共に風化し、やがては消えて忘れてしまう。しかし、会津の人々の生き様、震災による被害、5年経っても未だに残る爪痕、勇気ある行動、復興の希望などの事実は決して風化させていいものではない。私たちはこれらの事実を福島で目の当たりにしてきた。この事実を伝えることが出来るのは現地で事実を見、聞き、感じた私たちだ。

 そのための第一歩として、今回の報告書作成と相成ったわけである。各担当の報告書では、今回ツアーに参加したメンバーがツアーを終えての思いや感じたことを綴っている。冒頭にも述べたように、これからの生き方や考え方に大きな影響を与えたツアーであったことは間違いないだろう。今回のツアーメンバーは、同じ大学に通いながらも目指す道、描く将来像は1人ひとりまったく違う。しかし、このツアーの中で共に感じ、考えたことは共通の思い出としてこれからも残り続けるだろう。それぞれがどのような形で福島のことを考えるのかは定かではない。しかし、同じ大学に集い、同じツアーに参加した仲間としてこの報告書の作成をもってそれぞれの支援のはじまりとしたい。

 

 

 

 

●2017(平成29)年

大河原さんの人形劇

今年も拝見した大河原さんの人形劇

 

コミュタン福島

コミュタン福島

コミュタン福島

 

 

夕食後の振り返り

夕食後の振り返り

夕食後の振り返り

 

 

富岡町視察研修

富岡町視察研修

富岡町視察研修

 

 

 

浪江町視察研修

浪江町視察研修

浪江町視察研修

 

 

阿弥陀寺藤原住職によるご講演

阿弥陀寺藤原住職によるご講演

 

※このツアーの一部が「福島県の教育旅行 ふくしま教育旅行 ニュース&トピックス」に紹介されました。

「2017.10.24(火) 13:36

淑徳大学総合福祉学部のゼミ生が避難解除された浪江町で研修を実施」

https://www.tif.ne.jp/kyoiku/info/disp.html?id=464

 

【学生のことば】

事前学習会から多くの人が協力してくださり、無事ツアーを終えて報告書を作っています。ツアーに携わってくださった方々に心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。

今回のツアーでは多くの方が私たちに福島のことについて話してくださいました。伝え方は人それぞれで、人形劇で伝えてくださる方や、語り部として実体験を話される方、現実問題を声を大にして伝えてくださる方もいらっしゃいました。また役場の職員、科学館の館長、住職とそれぞれの方の立場も様々でした。内容にも違いはありましたが、どの方の話からも震災や原子力発電所の事故を忘れてほしくないという気持ちと、福島の未来へ向けた願いが感じられました。当時から6年がたち、震災関連のニュースをテレビで見ることもなくなり、忘れていたことやもう終わったのかなと思っていたことも私の中にありました。しかしツアーを通して6年という時間の短さを感じ、福島の人にとってはまだ何も終わっていないという状況を見ることが出来ました。特に風評については一部の人の誤解や一方的な考え方がいまだに残っており、それが前へ進もうとしている福島県の方の道をふさいでしまっていると再認識しました。言葉が人を傷つけていました。

私は人を苦しめている言葉の力を反対のプラスにして、震災の復興に貢献できたらと思います。そのために今回のツアーで得た様々な情報や考えを自分のものにして伝えていきたいです。

ツアーでは現地の野菜などおいしいものをたくさん食べました。食事をするというのは日常においてはごくごく普通のことです。しかし避難所での生活では一日おにぎり一つだったという話を複数の方から伺いました。日々の生活で当然のように行っていることも、とても価値のあることだと感じました。亡くなった時に初めて気づくことも多く、今回の気づきをまた忘れてしまうかもしれません。できるだけ忘れないように、食事をしたり誰かとつながったりするなど一つ一つを大切にしながら生活をしていきたいと思います。それが阿弥陀寺で藤原住職がおっしゃっていた「他を生かす」ということにつながるのではないかと考えます。

最後に今回のツアーで多くの考えに触れ、それらを一つでも多く理解できるようになりたいという気持ちが芽生えました。福島原発の事故において現地の人は、立場は違えど自分たちの県や県民のためにできることをやっていたと感じました。しかし、国か東京電力が自分たちの利益を優先した結果、大きな被害が出てしまったと考えます。そして多くの不安や対立を生み出してしまいました。いろいろな気持ちを抱えながら、それでも前に進もうとしています。福島県にかかわらず、私は将来、いろいろな思いを持っている人に寄り添える人間になりたいです。すべての人の考えを受け入れ、それを支えられるような心と姿勢を身に着けていきたいです。すべてというのは現実的には無理かもしれませんが、それでも誰一人見落とさないでいたいです。またこの気持ちをできるだけ周囲の人に伝えていきたいです。

 

 

●2018(平成30)年

3年連続で大河原さんご夫婦のもとを訪れました。

3年連続で大河原さんご夫婦のもとを訪れました。

3年連続で大河原さんご夫婦のもとを訪れました。

 

 

弾き語り・人形劇の様子

弾き語り・人形劇の様子

※大河原伸さんの弾き語り「正義の味方はどこにいる」

QRコードから視聴することができます。

大河原伸さんの弾き語り「正義の味方はどこにいる」QRコード


大河原多津子さんの人形劇「太郎と花子のものがたり」

※大河原多津子さんの人形劇「太郎と花子のものがたり」

QRコードから視聴することができます。

大河原多津子さんの人形劇「太郎と花子のものがたり」QRコード

 

本学OB岩佐さんによる研修

本学OB岩佐さんによる研修

山下地域交流センター(つばめの杜ひだまりホール)における本学OB岩佐さんによる研修

 

 

 

一般社団法人AFW吉川彰浩氏による視察研修

一般社団法人AFW吉川彰浩氏による視察研修

一般社団法人AFW吉川彰浩氏による視察研修

 

 

チャイルドハウスふくまる視察研修

チャイルドハウスふくまる視察研修

チャイルドハウスふくまる視察研修

 

【学生のことば】

全体を振り返って、三日間という短い時間でしたが、一日一日が色濃く私の中に残りました。一日目、大河原夫妻がどれほど大変な思いをして有機野菜を育てていたのか、その努力を原発事故によって一瞬で奪われてしまった悔しさをギターの弾き語りと人形劇を通して伝わってきました。そのあとに訪ねたコミュタン福島では、放射線がどういうものなのかを教わりました。放射線は身近なもので少しくらいなら身体に影響はないのだとわかりました。でも、実際に被害にあっている方の話を聞いた後では、頭では理解をしていても怖いという思いが残りました。

二日目、山下地域交流センターでの岩佐さんがお見せしてくださった津波の映像が忘れられません。本当にあっという間に水の量が増えていって、道に止まっていたトラックが軽々流されていきました。絶対にありえないことなんてないんだと思いました。津波が来るということの恐ろしさに身が震えました。

吉川彰浩さんのガイドによる視察では、立ち入り禁止区域や原子力発電所が近いため漁が再開できないと言われている海の方へ行きました。津波によって柱しか残っていない家や思い出が流されてしまった小学校をバスの中から見たとき、心が痛かったです。また、道路を挟んでの帰還区域の問題で800万円と引き換えに家を失うと突き付けられたらという話を聞いて、自分に置き換えて、状況を実際に見ないと他の人の痛みには気づけないと感じました。この時に、どこか客観的に見ていた私は頭を殴られたかのような衝撃で、何も言えませんでした。

三日目、チャイルドハウスふくまるの視察では、今まで大人からの目線でしか東日本大震災をとらえていなかったということに気がつきました。被害にあっているのは子供たちも同じで、今の自分がどれほど恵まれているのかを感じました。小さい身体で私が思ってもみない不安を抱えている子が沢山いるんだと知りました。

私はこのツアーを通して、津波の恐ろしさ、原子力発電の危険性、自分たちの故郷を想う気持ちなど多くの方の想いと考えに触れました。東日本大震災は、本当に大きな傷跡を残していったと思います。しかし、その中で、次に生かすため、自分たちの故郷を取り戻すため立ち上がる人たちの姿を見ました。人間ってこんなに強いんだということを改めて感じました。私も人との繋がりを大切にしたいし、福島は素晴らしいところで、震災に負けない心を持っていると伝えたいです。そこから、直接ではないかもしれませんが、何か支援ができればいいと思います。また、非日常はいつ起きてもおかしくないし、私にとって一番大切なものを考える良いきっかけになりました。本当に実りのある三日間でした。

 

【学生のことば】

ここまで、今回見学した施設や被災地を振り返ってきたが、私は福島県のことを全然理解できていなかったのだなということに気づきました。危険がないとは断言できないが、それでも故郷に残りたいという思いや、逆に故郷を離れて生活しないといけない状況や、熊本地震や西日本豪雨など他の災害が起こっているから東日本大震災の事を忘れている人も少なくないのではないかという不安など、福島の人々は今も悩み苦しんでいるのだなと実際に現地に行って視察することで気づいたことが沢山ありました。

私も、被災者の人々に寄り添いたいという気持ちはもちろんあります。ですが、故郷を奪われ、無残な街の姿を目の当たりにして生活している人の気持ちを十分に理解することは、あのような震災を経験していないから難しいとも思います。それでも、テレビ越しで被災地の様子を見ていた頃と違い、実際に目で見て、感じて、考えていくことでまだまだ私にできることはあるのではないかと思えました。何か行動に移すことが難しくても、テレビや新聞、ネットワークといったメディアを活用して今の福島県や他の被災地のことを知るだけでも意味があることだと考えています。

7年という長い年月が経っているように思いますが、公になっていないだけで、今も時間は止まったままという被災地の方々もいると思います。そのような人々の為にも、私は東日本大震災のことを忘れてはいけないなと感じています。当時中学生だった私も、家の棚やテレビが倒れるほどの地震に遭い、学校で実施していた避難訓練を実際に体験することになるとは思ってもいませんでした。東北の人たち程ではありませんが、このように恐ろしい経験をしているので、二度と災害が起きないでほしいと願いますし、万が一起きた場合に自分には何ができるか、今回の福島スタディツアーを通して学んだことをきちんと生かしていきたいと改めて感じることができました。尊い命を守るためには、被災地の人々やそれ以外の国民が他人事だと思わずに全体が協力し合って復興に力を注ぐことが大切だと思います。一人ひとりが被災地のためにできる限りの支援をすることで、被災地の方々が元の生活を取り戻すことに繋がるのではないかと考えます。

私は、スタディツアーに参加する前は「今更何ができるのか」「ほとんど元通りになっているのでは」と後ろ向きに考えていました。けれど、今回視察した人の中には、「こうして福島に来てくれるだけでも有難い」という事を言ってくれた人がいて、「何かしよう」という概念にとらわれず、震災の事を「知る」だけでも東北の人々には嬉しいことなのかなと思いました。

震災から7年も経過すると、時間と共に記憶が薄れていくのは仕方ないことかもしれません。けれどそこで終わらせず、震災の記憶が薄れている人々、東日本大震災を経験していない人々に、このような恐ろしい出来事があったのだということを伝えていくことが私たちにできることだと思います。そうすることで、被災地の人々の心に少しは寄り添えるのではないでしょうか。

 

歴史学科 被災地支援ボランティア(2016年:宮城 2017年:福島)まとめ

 

【2016年度 歴史学科 被災地支援ボランティアin宮城】

 2017年2月8・9日、人文学部歴史学科の学生4名は、東京キャンパス・ボランティアセンターの支援のもと、宮城県でボランティアを行いました(歴史学科の教員遠藤ゆり子が引率)。

 8日は、仙台市にある東北大学災害国際科学研究所を訪れ、NPO法人宮城歴史資料保全ネットワーク(以下、宮城史料ネット)の活動に参加しました。当日は、被災地からレスキューされてきた襖から、下張に使われていた古文書を取り出す作業を行いました。何層にも張られた紙を霧吹きで濡らしては剥がし、記録を取って濡らして剥がす、という作業を繰り返します。指先がふやけてボロボロになりながら、みんなで古文書を取り出しました。このように被災地から救い出されてきた史料から、新たな歴史的な発見があるかもしれません。

 翌日の9日は、東北大学の佐藤先生のご案内で、石巻へスタディツアーに行きました。まだ復興なかばの市街地を車でめぐり、多くの被害者を出した大川小学校も訪れました。津波にのみ込まれてしまった校舎の様子を見て、被害の甚大さと恐ろしさを感じました。海からこれほど離れた校舎が、津波に襲われるとはとても信じられませんでした。また、震災時に人々が津波から逃げた日和山という戦国時代の城跡にも登りました。この城の麓にあった集落の建物は悉く津波にのまれ、ただ唯一、本間さんというお宅の土蔵のみが壊れずに建っていたそうです。現在は、土蔵にあった資料は宮城史料ネットなどに救い出され、土蔵は震災の被害を伝える象徴として公開されています。

 テレビの映像だけではわからない、震災による被害の大きさや復興の現状について学ぶことができました。また、被災しながらも救い出された史料を取り出す作業に携わることもできました。このような機会を与えてくださった宮城史料ネットの皆様、石巻の本間さんをはじめ関係者の皆様には、心より感謝申し上げます。

 

 

 

 

 

【2017年度 歴史学科 被災地支援ボランティアin福島】

 2018年2月22・23日、人文学部歴史学科の学生13名が、東京キャンパスのボランティアセンター協力のもと、福島県でボランティア活動に参加しました(引率は歴史学科教員の遠藤ゆり子)。

 22日は、福島県郡山市において、福島大学の学生とともに「ふくしま歴史資料保存ネットワーク」の資料保全活動をお手伝いしました。この日は、福島県の浜通りにある双葉郡富岡町から運ばれた近現代資料のレスキュー作業を行いました。富岡町は、東日本大震災による地震・津波、そして原子力発電所の事故の影響により、住民たちが避難を余儀なくされた地域です。資料には、被災する前の富岡町の歴史、人々の暮らしを伝える古文書・写真のほか、古い卒業記念品などもありました。大事な資料を1つ1つきれいにしてから、三脚に設置した一眼レフカメラで資料番号とともに撮影します。その上で、資料の名前をあれこれと考えながら目録を作成しました。福島大学の学生たちとお話ししながら、楽しく、けれども真剣にボランティアに取り組みました。

 翌日23日の午前中は、郡山市のNPO法人 富岡町3・11を語る会で語り人である渡辺さんの講話をうかがいました。震災時、避難時、そして現在のお話を、実際に体験した人からお話を聞くことで、新たに知ったり、感じたりすることが多くありました。午後は、白河市へと電車で移動し、江戸時代に白河藩の城であった国指定史跡の白河城(小峰城)を見学しました。この城は、震災で石垣が崩れ、復旧のための工事が続けられています。石垣の修復の様子もパネルで展示されており、地域のシンボルである城の復興の様子を学ぶことができました。

 学生たちは、震災から7年後の現状について知るとともに、歴史学を通して被災地の支援に多少なりとも関わることができました。このような機会を与えてくださった、福島歴史資料保存ネットワーク(代表 福島大学・阿部浩一氏)の皆様、富岡町役場の皆様、NPO法人 富岡町3・11を語る会の皆様、どうもありがとうございました。

 

 

 

 

はじめに

震災から4年が経ち、被災地は少しずつ落ち着きを取り戻しているものの、宮城県石巻市雄勝町の復興は、過疎化と相まってまだまだ道半ばである。

 本研究は、歴史に残る大災害を、現地の方々(土の人)と本学学生(風の人)が出会い、被災者の語りに耳を傾け、意見を交わしながら、相互の交流と理解を促進し、震災を風化させないために企画された。世代や住む地域、体験の違いを越えて未来を築いていくための研究に取り組んだ。

 

研究の目的

1.本研究は、本学がこれまで震災支援を通して関係を築いてきた石巻市雄勝町において、被災者の方々が胸に秘めている被災の記憶を学生が傾聴することによって語りを促し、それを言語化し活字化して後世に残すことを第一の目的としている。
2.ソーシャルワーカーを目指す学生一人ひとりが真剣に被災者と向き合い、寄り添い、耳を傾けて、その心を受け取ろうとする共感力と傾聴力を高めることを第二の目的としている。
 
研究の方法
 
1.研究実施体制:教員1名(山口)と学生9名で研究グループを組織して実施する。
2.第1段階「学内での事前学習」:石巻市雄勝町の震災前後の状況等について、資料や映像を通して事前学習を実施する。
3.第2段階「現地での準備(プレ)調査」:現地を訪ね、現地に身を置き、震災の状況を体感し、夏に予定しているインタビューに向けてプレ調査(対象者1名)を実施する。
4.第3段階「現地での本調査」:夏休み期間に3泊4日で現地を訪問し、被災者の方々9名に対して、学生2名が1組となり訪問インタビューを実施する。
5.第4段階「学内でのまとめ作業」:インタビュー記録を整理し、語りの言語化(活字化)に取り組む。また、学生自身が体感したことの言語化作業を行う。
6.その成果を報告書または報告会にて発表する。
 
今回の発表内容について
今回の発表では、第2段階における以下の2点について報告する。
1.被災地(石巻市、女川町)を訪ね、その人々と出会い、当時の様子を頭の中で想像しながら、今を見つめ、体感したことについて。
2.1名の被災者の方にご協力をいただき、プレインタビュー調査を実施したことについて。
 
被災地への訪問
 現地を知り震災の状況を体感するために、以下の場所を訪問した。

日和山公園、雄勝病院、雄勝硯生産販売協同組合、大川小学校、女川町

 今回の発表では、それぞれの場所の概要や被害状況、訪問することで感じられたことについて発表する。

日和山公園

概要

・標高56m、旧北上川河口に位置する陵丘地である。

・かつて松尾芭蕉も訪れ、石巻市内を一望出来る場所として有名。

・天気が良い日は、牡鹿半島や松島、蔵王の山々などを見ることが可能。

・標高56mの日和山は、震災時、数え切れない人が避難した。

・高さ6m超えの大津波が、目の前の街並みや車を押し流した。

・同時発生の津波火災により、燃え上がる街の景色となった。

・避難した人々は、絶望感とともに家族、友人の無事を祈りながら夜を明かしたそうだ。

その場に立ってみて

 日和山公園の石碑にも書いてあるが、自分の命は助かったが、家や街中、木々までも流されている光景を目の当たりにしたのだから、当時の状況や心境を簡単に想像してはいけないと感じた。

理解すること

 今、被害が一望出来る場所として観光名所であり、復興支援のために全国から人々が来て、当時を知ることは良いことである。しかし、当時を思い出して辛い気持ちになるなど、4年経った今でも傷は癒えていないということを被災者以外の人は理解する必要があると感じた。

雄勝病院

雄勝病院

雄勝病院

概要

・平成1741日に16町合併により「雄勝町国民健康保険 病院」から「石巻市立雄勝病院」へ名称変更。

・雄勝病院は雄勝湾沿いに建てられていた。

3階建てで高さは15m本館と棟続きの新館で建てられており、

  鉄筋コンクリートの建物であった。

現在、雄勝病院は完全に取り壊されており、現場には慰霊碑が

  建立されている。


被害状況

・入院患者は40全員が死亡。

・職員は病院にいた3024が死亡、または行方不明となった

訪ねてみて感じたこと

 文字や写真だけでは、雄勝病院の立地や周辺環境のイメージが湧かない部分があった。訪れてみて、雄勝病院は海岸との距離が近いことや、その間には防潮堤と県道だけであることを確認する事が出来た。このような立地により、津波の到達が速くなったのではないだろうか。


雄勝硯生産販売協同組合

雄勝硯生産販売協同組合

雄勝硯生産販売協同組合

概要

・雄勝硯、雄勝石スレート、雄勝工芸品等を生産・販売。

・平成26年6月には震災後最大の念願であった仮設工房が、多くの 人々の支援のもと開所した。

・最近では硯や食器以外にクラフト製品の製造や、テーブルウエアの開発にも力を入れている。

・雄勝石を加工した石皿は国内外からも高い評価を受け、産業の復興を目指し海外でも展示会など様々な活動を行なっている。

工芸品の素晴らしさや雄勝の存在を伝える

工芸品の素晴らしさや雄勝の存在を伝える

工芸品の素晴らしさや雄勝の存在を“伝える”

 雄勝硯は600年続く歴史と伝統があり、我が国が誇る伝統的工芸品を守り続けていかなければならない。そのためにも、伝統ある工芸品の素晴らしさを、より多くの人に知ってもらいたいと思った。硯組合で行なっている事業や雄勝石のことを様々な人に知ってもらうことが重要だと思う。こうした活動によって、多くの人に工芸品の素晴らしさを知ってもらう機会が増え、雄勝の存在を伝えていくことができると思った。

実際に見学をして感じたこと

 平成26年6月には震災後最大の念願であった仮設工房が、多くの人々の支援のもと開所した。今回硯組合を見学して、震災によって大きな被害を受けたが、たくさんの人に支えられながら復興を目指し歩んでいる人々の思いが工芸品を通して感じられた。

 

大川小学校

概要

・石巻市立大川小学校は、宮城県石巻市釜谷山根にある公立小学校である。

・小学校は震災当時のままの姿を残している。また、犠牲者を弔うための慰霊碑と母子像が設置されている。

被害状況

・児童108名のうち74名、教職員13名のうち10名が亡くなり、スクールバスの運転手も亡くなっている。

・校舎は割れたガラスが散乱し、倒壊する恐れもあった。

・周辺の集落を含め、いまだ復興には至っていない。

小学校を自分の目で見て

 小学校を実際に見て被害にあった子どもたちの気持ちはどうだったのか、恐怖以外の気持ちも感じたのではないかと思った。また、大切な家族を亡くした小学校を壊してしまいたい人、被害を伝えたい気持ちと失った悲しみの間で葛藤しつつも、この場所を残したい人がいるのではないかと考える。

自分にできること

 私は被災していないので、被災された方の気持ちを語ることができない。しかし、被災地で見聞きしたことは残していくことができる。記憶というものは時間とともに薄れていくものではあるが、尊い犠牲があった出来事は忘れてはいけない。私はしっかりと覚えておき、それを伝えていきたい。


女川町


概要

・宮城県の東、牡鹿半島基部に位置する。

・日本有数の漁港である女川漁港がある。

・前九年の役(平安時代後期)の頃、豪族 安倍貞任が源氏方の軍と

  戦った際に、一族の婦女子を安全地帯である「安野平」に避難させた。

  そこに流れる川の名を「女川」としたことが、この町の名の由来である。

被害状況


・町人口10,016名のうち、574名が命を失った。

・震災行方不明者の中で、253名の死亡届が受理された。

・住宅総数4,414棟のうち、3,934棟(89.2%)が被害を受けた。

・最大津波高は、17.6mであった。


女川町地域医療センター

・震災当時、町内唯一の医療機関である女川町立病院だった。

・海抜16mの高台に位置しているものの、

  津波高が1階の床から1.95mにまで


女川町地域医療センター

きぼうのかね商店街

・2012(平成24)年4月29日に仮設商店街として開設された。

・今では、被災地最大規模の仮設商店街に育っている。


きぼうのかね商店街

きぼうのかね商店街

「ここまで津波は来ないだろう」

 海抜16m高台にある女川町立病院に避難していた人の中には、このように思っていた人も少なくないだろう。しかし、津波により1階部分は完全に浸水した。2階、3階に避難していた方々は、自分のすぐ下まで津波が押し寄せていたのだから、とても不安で心細かったと思う。

とても気さくな商店街

 青果店や衣料品店など様々なお店に加え、交番や金融機関なども揃っていた「ぼうのかね商店街」。どのお店の方々も気さくに迎え入れてくださったため、とても温かい気持ちになると同時に、悲惨な震災を乗り越えて商店街を盛り上げているお店の方々の強さを感じた

宿泊先:亀山旅館

 今回宿泊させていただいた亀山旅館は、創業60年以上続く老舗であり、大須の地で家族経営をされている。東日本大震災では津波の被害を受けず、震災後は平成23年10月頃から再開した。

季節の旬のものや、新鮮な海の幸をふんだんに使った磯料理を提供していて、私たちは、生ウニをいただいた。女将であるお母さんの笑顔にもパワーをいただき、石巻市を訪れた際には、ぜひ亀山旅館に宿泊してほしいと思った。

2.特別養護老人ホーム雄心苑

雄心苑は、雄勝湾と太平洋を一望できる高台に建ち、緑豊かな場所にある。震災発生時、この雄心苑には60名の入所者と数名の職員が出勤していた。

 6月13日、プレ調査のため、10人中1人目である雄心苑の原律子施設長にご協力いただいた。 

 そこでは、原施設長が体験した出来事や当時の想いをお聞きし、インタビュー内容や私たちの感想を以下にまとめた。


インタビュー概要

インタビュー概要

1.対象者の基本属性、地域性等について

   律子 施設長(責任者)

 ・特別養護老人ホーム雄心苑施設長

 ・デイサービス、地域包括支援センター所長 

 

2.発災当時の様子について

  震災時、職員は、日々の訓練が活かされ、咄嗟に行動に移すことができ、雄心苑では一人も亡くなることは無かった。また、避難所として50の住民を受け入れた。雄心苑では、利用者をみることで精一杯のため、住民同士でできることをしてもらった。50名の中から5人リーダーをだし避難者名簿を作り、住民同士の自治組織として機能してもらった

 

3.発災後の施設の対応

  発災後、山形県の施設が利用者の受け入れ先となってくれた。寝たきりの利用者をヘリコプターで山形県の施設へと運んだ。山形県の施設への受け入れにあたって、利用者66名の個人記録を4枚複写のカーボン紙を使用し、手書きで作成した。

4.震災の体験から伝えたいこと・気持ち

 ・4年経っても悲しい出来事であり、この想いは変わらない。

 ・記録などに残しておいて伝えてほしいが、そのためには気持ちを

  リセットしなければならないなど勇気がいる。

 ・今生きていることを大切にすることが大事。

インタビュー内容の感想

・原さんの前向きさと、施設長という立場から逃げずに立ち向かった強さを感じた。

 震災当時は、これから先の不安や心細さを感じ、余裕がない状況の中、施設長としての決断と責任を持ち、最後まであきらめずにその場を離れず居続けたことが、原さんの強さであり、 前向きさだと感じた。

 気持ちが癒えることはない。

 遺族や大切な友人を亡くした人がいる中で、自分が助かって良かったと純粋に笑顔で思う日はこないかもしれない。しかし、それでも人は前を向き、震災への備えや対応を強化し、復興へと周りの人々と支え合いながら前より強く生きていくのではないかと思った。

 もし、自分が震災にあったとき...

 震災当時、住民が約50名避難してきた。施設も精一杯だったため、住民同士が支え合い、自分たちでできることはしてもらった。震災時には、ボランティアの協力も必要だが、それよりも被災している人たちの支え合いの力がとても大きな力になる。もし、自分が震災にあったときに、その日初めて会った人たちと助け合えるかと考えると、正直不安だが、自分にできることを探し、あきらめずに行動できる人になりたい。

 

インタビュー技法の振り返り

・相手のペースに合わせる

 原さん自身、積極的にお話をして下さったため、自分から質問をすることは2,3回であった。しかし、原さんが震災の出来事を思い返し、自分の中で整理し直してから学生に話すことで、気持ちの整理に繋がる機会になるならば、傾聴を通して、気持ちを受けとめようと感じた。

 

・「相槌」による意思表示

 原さんが話す内容は驚くことばかりだったが、意思表示は簡素なものになってしまった。さらに話について共感して内容の濃いものにするならば、相槌のバリエーションを豊富にし、原さんに聞こえる声で相槌するべきだった。

 

・「沈黙」の間

 話した後の沈黙は、感情などの大事なことがらが述べられるため、ある程度の間を空ける。しかし、沈黙後の言葉に期待して、間を空けてしまい、原さんに話の催促をする形になった。沈黙の間を大事にしながら、自分から「その時のお気持ちは?」と質問するのもいいのかもしれないと感じた。


以上が、本研究の第2段階における中間報告である。

 現在本研究は、第4段階に突入している。第3段階で実施したインタビューの逐語録を作成し、インタビューにより学生自身が体感したことを言語化するとともに、本研究の報告書を作成している。

 東日本大震災での出来事は、決して忘れてはならないことである。私たち山口ゼミは、本研究により、震災を風化させず後世に残していくことで、震災を経験した人だけでなく、震災を知らない次の世代の人にも、このことをつないでいきたいと考えている。